マールブランシュ

京都の北山に本店があるマールブランシュは私の好きなお菓子屋さんの1つです。

京都に行ったら、女性向けのお土産は茶の菓を買っておけば問題ないと思っています。
うまいので、もちろん自分用にも買います…

マールブランシュはサロン…イートインできる場所が三カ所ありまして、それぞれの場所でしか食べられないお菓子があります。

北山本店のイートインでは、ミルフィーユが食べられます。
私が食べてきたのは確か季節限定もので、洋梨のミルフィーユです。

私、洋梨はあまり好きではないのですが、カラメリゼした洋梨なのかな、コンポートかな…は無茶苦茶美味しくて、下の部分はチョコがベースの堅めのムースだと思いますが、私チョコが好きので、これも美味しくて、大満足でした…

京都に二泊三日に旅行に行きまして、二日目に行ったのですが、どうしてももう一回食べたくて、三日目にも行って食べました…やっぱり美味しかったです…

1回目、おいしかったと思ったものでも、2回目食べると、あれ?こんなもんだっけ?と思うことはよくあることですが、洋梨のミルフィーユは美味しかったです…また食べたい…

私が行ったのは1回目が平日の17時、2回目が平日の13時45分でした。
どちらも待ちなしでしたが、14時くらいから待ちが発生していました。遅い時間ですち待ちが発生しませんが、ケーキが売り切れてしまってお目当てのケーキがないと思います。13時45分の時点ですと、ほぼ全部のケーキがありましたが、15時くらいにはだいぶ売り切れが発生していました。

待ちが発生しても、隣の建物に待つためのスペースがあったり、携帯電話で呼んでくれます。が、やっぱり待ちが発生すると席数が少ないので待ち時間は長いので旅行のついでに行く場合はマールブランシュだけに2時間を確保しておかないと駄目かな…と思います。

次は京都伊勢丹のサロンでパンケーキかパフェだなあ…

ヨルダンとイスラエル(2014年3月18日~3月26日) エルサレムとベツレヘム編

私はユダヤ教徒でもなく、キリスト教徒でもなく、イスラム教徒でもないのですが、三大宗教の聖地のあるイスラエルのエルサレムは「おおー」と思うところでした。

日本にいると「中東は怖い」というイメージがあって、確かに2014年9月現在、だいぶ情勢が悪いのですが、宗教に興味がある方々にとっては外せない場所なので、ぜひ訪れてみて頂きたいです。

ヨルダンからアレンビー橋を通ってイスラエルに入国してエルサレムに向かいます。
この日は金曜日で ユダヤ教は金曜日の日没から安息日に入るから…だったかな…なので、15時で業務終了です。
セキュリティがすごく厳しくて手続きも何やら複雑で英語が達者でないと通過するのがすごく大変だと思います。私は通過する自信がないです…
添乗員さん曰く、やり方がころころかわるので行ってみないと分からないそうで、何度か通っているけど何か違うことがあるそうです。

アレンビー橋は正式な国境ではなくて、イスラエル側にいるパレスチナ人が何か手続きが必要でヨルダンのアンマンに行く為の場所と聞きました。 ただ観光客はこの場所を通過してヨルダンからイスラエルに入国することができます。

だいぶ時間がかかって、抜けるのに3時間かかったと記憶しています。それでも「いやー、今回は早かったなー」と添乗員さんとイスラエル側のガイドさんがおっしゃっていました。なんでしょう、中東に行くと「まあ、そういう時間感覚でもしょうがないなー」という気にはなるのですが、国境だと何か緊張して時間がたつのがとても長く感じるというか、そんな感じです。

さて、ここから、死海文書が発見されたクムランに向かいましたが、安息日に入るので博物館等はすでにしまっています…しょうがない。

より大きな地図で クムラン を表示

それでも観光客がいっぱい。

なんの変哲もない風景ですが、ここが死海文書が発見された洞窟群です。死海文書の何がすごかったかというと、死海文書が見つかる前の聖書は結構新しい時代に書かれたのですが、死海文書は紀元一世紀頃に紀元前二世紀頃からのことが書かれたものということで、キリストが活動していた頃のユダヤ教の聖書が見つかったこと…文書は時代とともに後生の人がいろいろ書き換えていきますし、ユダヤ教も他の宗教と同様に宗派がいろいろあるので、聖書の解釈の仕方が違ったりするのですが、そもそも昔はどうだったのか?ということが分かるものが見つかったということです。

また、この場所は、「聖杯」があった場所ではないかとも言われていて、ジョーンズ博士が聖杯を求めて来たのは、ここらへんだったはず、とのことでした。そういや、ジョーンズ博士が戦車と競り合っていたのは、こんな砂漠だった気がします…

ここからエルサレムに向かいました。
エルサレムは地区がいくつか分かれていて、最初に観光したのはオリーブ山でした。
地図だと分からないのですが、オリーブ山は「山」なので、高低差があります。
可能であれば、昇天教会/主の祈りの教会あたりまでタクシーかアラブバス…があるかな…であがって、そこから下っていくのがいいです。と、ガイドさんが言っていました。
確かにだいぶきつい勾配です。

最初は主の祈りの教会、イエスが弟子に請われて主に祈りを教えたと言われる教会です。キリストにまつわる教会建物はとても簡素に作られています。キリストが活動していた当時の状況を想像できるようになるべく簡素にするのがポリシーと聞きました。

主の祈りの教会は世界の言語で主の祈りの言葉が書いてあります。見るととても短いです。ユダヤ教の祈りの言葉はすごく長いですが、キリスト教はとても短いです。また、ユダヤ教の聖書はヘブライ語で、ヘブライ語でお祈りするのですが、キリスト教は各種言語でお祈りしてOKと、ユダヤ教よりもハードルが低いのが広まった理由の1つ…と聞いた気がします。
シンプルな方が受けいられやすい…とのは、その通りだと思いました。

日本語もありますが、現代の日本語とちょっと違います。何回か表現を書き換えているそうです。言語は生き物だなあ…と思います。

逆光な神殿の丘方面です。

オリーブ山なのでオリーブがいっぱい。

ユダヤ人墓地。最後の審判の日にここで死者がよみがえると伝えられているので、ここにお墓があります。

谷の底から金のドーム方面を見上げるとこんな感じで、神殿の壁に門があります。

この門は、黄金門と言われて、救世主がここからエルサレムに入ってくると言われています。
黄金門の説明については、ブロックされた黄金門、とムスリム墓地 : こらぼ さらくだと 黄金門 – 悠久の聖地 エルサレムがいいかなと思いました。

主の泣かれた教会。イエスはオリーブ山からの帰途、エルサレムを眺め、その滅亡を予言し涙したと言われる…ので、教会からはエルサレムの方を見られるように窓が大きく開いています。

万国民の教会、ゲッセマネの園にある教会で、いろんな国からの献金で建てられたので万国民の教会です。こちらの文書が説明としてはいいかなと思いました。別名を苦悶の教会といいます。イエスが処刑前夜の最後の夜を苦しみながら神に祈った場所です。

こちらがゲッセマネの園の様子です。

キリストはその思想…でいいのかな、を伝える為に神殿の丘の周辺の教会で、自分の考えを話すのですが、下手なことを話すとしょっぴかれてしまうので、非常に曖昧にぼやっとした感じでしゃべったそうです。それを聞いた弟子も意味が分からなくて、帰り道…帰り道がこのゲッセマネの園だったりオリーブ山だったりしたそうですが、ここで弟子さんたちが「さっき言ったことはどういうことだったのですか?」と聞いて、それはこういう意味だ…と弟子たちに教えを説いたのが、ここらへんだそうです。2000年前の出来事の場所が、今もこうやって残っているのはなんか、こう、すごいなあと思います。

ここからは、ヴィア・ドロローサです。
イエスが死刑の判決を受けて十字架を背負わされて磔の刑にされるまでの道です。イエスがたどったこの道を追体験するために多くの巡礼者がいます。実際に大きい十字架を背負って祈りながら歩く方もいます。私、オタクですが、まさにリアル聖地巡礼で、なんというか、キリスト教との方々が、イエスの気持ちになって、この道を歩くと感無量なんだろうなあ…と想像します。

エルサレムはいろいろな国?民族?が入れ替わり立ち替わり来た歴史があります。
下の写真は、ここに門があったっぽい後が見られます。

ここがヴィア・ドロローサの第2留…だと思います。鞭打ちの教会です。ここでイエスは十字架を背負わされます。

とことことイエスが辿った道を歩いて行きます。

第3留、イエスが十字架の重みに耐えかね、最初につまづいた所です。
ポイント…と言えばいいのでしょうか、ポイントごとに祈祷所があり、キリスト教徒の方々は祈祷所で祈祷しながら歩いて行きます。

キリストの教徒の聖地であるとと共に、ここは繁華街ですのでもちろん生活している人もいっぱいいます。我々のようなキリスト教徒ではない観光客もいっぱいいまして、だいぶ混んでいて歩くのが大変です。

こんな感じで人がいっぱいです。現地のガイドさん曰く、これでも空いてるそうで、混んでて歩けない場合は…このときはすべてのポイントを回りましたが、ポイントをすっ飛ばさざるを得ないと言っていました。

第8留、イエスがエルサレムの娘たちに「私のために泣くな、自分たち、また自分の子供たちのために泣くがよい」と語った場所と言われている場所です。なんで指をいれているのか忘れました…

第9留、イエスが3度倒れた所です。ここは人が少なかったです。繁華街の通りから外れるからだと思います。

ここ以降は、ゴルゴタの丘の上に立てられた聖墳墓教会の内部になります。聖墳墓教会は当たり前ですが人が多くてかつ複雑な構造になっているので迷います。キリスト教にも、いろいろな宗派があって、それぞれの宗派がこの教会の中に配置されています。

イエスの墓です。

中に入ってお祈りできるのですが、人多いです。ガイドさん曰く、ツアーの限られた時間の中で入れたことはない…と言っていた気がするので、個人でいって時間が目一杯無い無理かなと思います。キリスト教徒の方でしたら、一度は行きたいのかなと思います。

以下、教会の中の様子です。

最後の写真は、イエスが息を引き取って香油を塗られた場所です。
友達にキリスト教系の学校の方がいるのですが、聖書の世界がここにある…ので、なんとかお金と時間を工面して来てみて頂きたい…と思いました。聖書をある程度しか知らない私でも「あー、ここかー」とおもうところがあります。

ここはシオンの丘にある最後の晩餐を行ったと言われる場所です。だいぶ殺風景だったりします。そして、写真はない…というか取れないので写真がないのですが、この下にダビデ王の墓、ユダヤ教の方々にとって大事な場所があります。今でこそユダヤ人が嘆きの壁に近づくことができるようになりましたが、嘆きの壁に近づくことを許されなかった時代は、ダビデ王の墓がユダヤ人の方々の祈祷の場所だったそうです。

ダビデ王の墓を見る為には、男性の場合、帽子を被る必要があります。帽子は、ユダヤ教の何かがある場所には必ずおいてあるので、何か用意する必要は無いです。帽子はキッパーと言います。その意味は「神に対して頭を隠すことで、神に対しての謙遜の意思を表す」ということです。ガイドさんには、神と私たちが同じ位置にいるのはよろしくないので境界として帽子を被る…と説明を受けた気がします。

シオンの丘からの風景です。

 

こちらは鶏鳴教会です。とても有名な話の場面に建てられた教会です。
「ペテロ、お前は、鶏が鳴く前に、イエスを知らないと三度言う」とイエスがペテロに言って、いやいや、イエス様、私がそんなことを言うはずはないですと思っていたら、ゲッセマネでイエスが逮捕されてました。そして…

ペトロは外にいて中庭に座っていた。そこへ一人の女中が近寄って来て、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言った。
ペトロは皆の前でそれを打ち消して、「何のことを言っているのか、わたしには分からない」と言った。
ペトロが門の方に行くと、ほかの女中が彼に目を留め、居合わせた人々に、「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と言った。
そこで、ペトロは再び、「そんな人は知らない」と誓って打ち消した。
しばらくして、そこにいた人々が近寄って来てペトロに言った。「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる。」
そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。
ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。

というわけで、イエスの言った通りになってしまいました。
で、 そんなペテロを非難してこの教会が建てられたわけではなくて、人間の弱さ、人間は弱い者であるということと、そしてペテロはその後、キリストの教えを広める為にとても精力的に活動して、イエスよりえげつない方法で殺される…逆さ十字架にかけられたということになっていますが、ちゃんと反省して頑張ったぞ、というのを私たちが認識するために建てられてます。
ペテロが殉教した場所はサン・ピエトロ寺院が建てられて、ペテロの偉大さが分かります…

鶏鳴教会の横には、キリストが歩いたと言われる石段があります。今は保存のために歩けないですが、昔は歩けたそうで、なんというか、すごいなーと思います。

ここからイエスが生まれたと言われるベツレヘムに行きます。
ベツレヘムはパレスチナ自治区にあります。
イスラエルとパレスチナ自治区は壁で区切られているので壁を越えてパレスチナ自治区に入ります。壁については後ほど…

こちらは聖誕教会で、イエス誕生の地として教会を建てたところです。

写真を撮っていないのですが入り口がすごく狭いです。2002年この教会にパレスチナ人が立て籠もって教会を包囲したイスラエル軍と対立するということがありました。
そんな緊迫した状況で、日本人がトコトコとやってきて「観光したいんだけど入れますか?」と教会にやってきたそうです。教会の方が「いやいや、ここは観光とかそんな状況じゃないんですよ」と伝え、日本人は「そうなんですか」と帰ったそうです。なんというか、日本人らしいですよねとガイドさんが言っていました。

教会内部です。当時は天井…かなを大々的に修復していました。これは日本の東日本大震災を受けて「あれだけの地震が起こる」ということで、いろいろなところで地震対策がはじまっていて、その1つだそうです。

さて、パレスチナ自治区にきて、私が一番衝撃を受けたのが、イスラエルとパレスチナ自治区を分離する壁です。

この壁は第2次インティーファーダ(民衆蜂起)でパレスチナ人によるイスラエル側への自爆テロを防ぐために作られた…でいいと思います。パレスチナ自治区とイスラエル…ちょっと表現に迷うのですが…パレスチナ人とイスラエル人の住んでいるところの敷居は特になくて、トコトコ歩けばそこはパレスチナ自治区/イスラエルだったりしたわけです。第2次インティーファーダの際、パレスチナ人がイスラエルを攻撃する際に、子供を前面に出して、その後ろから大人がイスラエル軍を攻撃するという戦術をとったこともあり、イスラエル軍は子供を撃つと国際社会で避難を浴びることになり、それを知っていて子供を盾にするという戦術が選択される…という憎しみが憎しみを呼ぶ戦いが起こっていたそうです。この状況を打破するためには、パレスチナ自治区とイスラエルを物理的に分断するとかないということで、分離壁が建設されました。分離壁が建設されてからは、テロは起こっていないそうです。

分離壁とパレスチナ人にとっての分離壁については壁の向こう側 ―隔たれるイスラエルとパレスチナの今―がいいかな…と思います。

イスラエル人は、イスラエルからパレスチナ自治区に来ることは出来なかったのですが、現在は「パレスチナ自治区で何があってもいいです」という誓約書だったかな…があれば行けるようになったと言っていたと思います。
パレスチナ人は一部の人しかイスラエルに出ることは出来ないです。

こちらがチェックポイント、イスラエルとパレスチナ自治区を行き来するところです。
ガイドさんもパレスチナ自治区にひさしぶりに来たそうです。昔はイスラエルもパレスチナ自治区もそうかわらなかったけど、壁が出来て、ひさしぶりに来たらだいぶ変わっていたと、とても貧しくなっていること、パレスチナ自治区に住んでいる子供達は壁の向こうを知ることができないので、今までは否が応でも異文化がすぐそこにあったのに、それがない、ゆえに異文化を理解する機会が無いと言っていました。

ベルリンの壁は崩壊しましたが、この壁はおそらくベルリンの壁よりも全然厚いと思いました。壁を隔てた民族には今のところ憎しみしかないように思えます。ガイドさんに「イスラエル人とパレスチナ人がなんとかうまくやっていく方法はないんですか」と聞いたところ、「うーん、少なくとも大人の間には憎しみしかないから駄目だろうなあ、子供達に託すしか無いよね、だから私は子供達に異文化を理解してもらうようにいろいろやってる、まあ、ベルリンの壁もなくなったし、いつかはなくなるんじゃないかなー」と言っていました。